研究紹介

 私たちの研究目的は、さまざまな生命現象を制御する分子ネットワークであるシグナル伝達機構の仕組みを定量的に記述して統合的に「システム」として理解することです。私たちは実験的方法とコンピュータ・シミュレーションの両方を用いてシステム生物学という観点から細胞の機能を理解しようとしています。 シグナル伝達ネットワークの本質は、多彩な入力の情報を限られた種類の分子にコードすることにあります。私たちは(1)ERK経路による細胞運命決定機構や、(2)細胞分化の準備期に必要な遺伝子群の同定、(3)AKT経路に代表されるシグナル伝達経路のローパスフィルタ特性、(4)インスリンシグナリングなどが、分子活性の時間パターンに入力情報がコードすることにより多彩な生理機能を制御する「時間情報コード」を世界に先駆け見出しています。本研究室では、「時間情報コード」の観点からシグナル伝達ネットワークの情報処理の仕組みを明らかにすることを目的としています。
 生命科学では「情報」という言葉は定義がなくあいまいなまま用いられています。一方、情報理論では「情報」をエントロピーとして定義することが可能です。私たちが開発した自動化定量測定技術QIC(Quantitative Image Cytometry)により、シグナル伝達ネットワークが何ビットの情報を伝達可能か計測できるようになりました。これにより(5)シグナル伝達ネットワークの情報通信路としての特性が初めて明らかになると期待されます。
 これまでの解析では、個々の研究結果を統合してシステムの全体像を描いてきました(ボトムアップアプローチ)。しかし、これではさまざまな矛盾が生じることが明らかとなってきました。その主な原因は、個々の研究では測定分子の網羅性と多階層性が乏しいことと、実験条件が異なることにあります。したがって、各階層の分子を網羅的に計測する技術(オミクス技術)を結集して同一条件で計測し、そのデータを統合して解析を行うこと、すなわち、トランスオミクスが必要となってきています(トップダウンアプローチ)。これらの計測は単独研究室で行うことは不可能です。そこで、私たちはリン酸化プロテオミクス(九大、中山先生、松本先生との共同研究)とメタボロミクス(慶大、曽我先生)と協力して、同一条件で(6)インスリンの作用のトランスオミクス計測を行い、リン酸化タンパク質による代謝制御のグローバルネットワークをオミクスデータから人手を解さず自動的にアンバイアスに再構築する手法を確立しました。
 このようにシグナル伝達機構は要素も多く複雑な相互作用により成り立っているため、実験観測で得られる個々の分子の情報を生命現象に関連づけるボトムアップの手法のみでは実際のところなかなか理解できません。逆に、トップダウン的に単なる入出力データから情報を抽出してモデルを推定する手法では多くの場合モデルを一意に決定できません。将来的には、トップダウンに同定したアンバイアスなグローバルネットワークを縮約して、ネットワークモチーフを同定して個別に解析して、時間情報コードの設計原理(design principle)を解明していきます。このようにボトムアップとトップダウンのアプローチを組み合わせるところが私たちの次のチャレンジのひとつです。

細胞運命決定機構
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 私たちの研究手法は、非常に多彩です。従来の分子細胞生物学的実験だけでなく、微分方程式を用いたシミュレーションや、システム同定、統計モデル、情報理論などさまざま数理解析手法を用います。これらの数理解析を行うためには、大量かつ高精度の計測データが必要です。そこで、(7)ロボットや自動計測手法を導入して、極力人手によるばらつきを抑えるようなハイテク化を試み、自動化・ハイスループット化にも取り組んでいます。

1. インスリンシグナル伝達のトランスオミクス解析
2. インスリン作用の時間情報コーディング
3. シグナル伝達ネットワークの情報伝達
4. シナプス可塑性

 

1. インスリンシグナル伝達のトランスオミクス解析

 生命システムが示す様々な表現型は、代謝物、タンパク質、mRNAなどの多階層にまたがる分子ネットワークによって調節されています。インスリンによる代謝制御はその好例で、シグナル伝達系が代謝酵素のリン酸化や転写制御を介して糖代謝を調節することが知られています。こうした多階層の調節メカニズムを解明するため、従来の生物学では一部の分子の周囲のみを多階層にわたって解析する研究や、一つの階層のみを網羅的に解析する研究を行ってきました(図1)。しかし、これらの従来のボトムアップアプローチは研究者の主観によって解析対象にバイアスがかかるため、鍵となる経路や分子を取り逃がす可能性が否めません。
このようなボトムアップアプローチの限界を克服するため、我々は複数階層を網羅的に測定し、多階層にまたがる大規模ネットワークを再構築するトップダウンアプローチである「トランスオミクス解析」の手法を確立しました(柚木ら、2014 プレスリリース, 図1)。メタボローム(慶大・曽我研との共同研究)やリン酸化プロテオーム(九大・中山研との共同研究)といった「細胞のビッグデータ」から、多階層にまたがるインスリンの代謝調節経路をデータドリブンに再構築した結果、インスリンによる調節がこれまで考えられていたよりも広い範囲のネットワークに及ぶことが明らかとなりました(図2)。さらに、再構築したインスリン代謝制御ネットワークを数理モデルと分子生物学実験により解析した結果、肝臓のみで機能する新規経路を発見しました。
この方法論は、インスリンに限らず広くシグナル伝達を介する代謝制御ネットワークの再構築に応用することが可能です。また、細胞のみならず、臓器や個体レベルのネットワーク再構築にも利用可能です。この特性を生かし、今後は他の多階層調節メカニズムや、臓器、個体レベルのトランスオミクス解析も行っていきます。

図1

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図2

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2. インスリン作用の時間情報コーディング

 細胞は限られたシグナル伝達経路を用いて外界変化という複雑で多くの刺激情報を処理しなくてはなりません。これを達成するために、細胞は活性化する経路の組み合わせにより情報を処理するという方法を用いていることが知られています。今までの研究から我々は、これに加え、分子の時間パターンに情報が埋め込まれ、細胞がその情報を処理しているという「時間情報コーディング」の概念を世界に先駆けて提唱しています。

図1
LP遺伝子の神経分化における働き
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 インスリンは生体内において複数の応答を制御しており、その破綻は糖尿病を誘発することが知られています。また、血中のインスリンは複数の波形からなることが知られており(図1)、その生理学的意義も報告されていますが、これらの波形が生理作用に及ぼす分子メカニズムは不明でした。我々は「時間情報コーディング」の概念から、インスリンの血中波形に複数の情報がコードされ、そのインスリン波形がコードされた情報依存的に標的臓器の応答を個別に制御しているのではないかと考えました。そこでインスリンの最初の標的臓器であり、最も波形の影響を受けている肝臓細胞に注目し、実験とシミュレーションを用いて解析を行いました。その結果、インスリンの波形に埋め込まれた複数の情報が、一旦、インスリン作用において中心的な役割を担っているAKTの時間パターンに多重にコードされ、下流分子がそれらの情報をネットワーク構造やkineticsの違いによりデコードすることで、インスリン波形が下流の分子を個別に制御できることを明らかにしました(図1)。この様なメカニズムは、インスリンシグナル伝達経路に限らず他の経路にも存在する一般的なメカニズムであると考えられます。将来的には動物を用いた実験も行い、インスリン波形による情報処理機構を解明し、生体内における「時間情報コーディング」の概念の存在とそのメカニズムを明らかにすることを目的としています。

 

3. シグナル伝達ネットワークの情報伝達

 細胞を取り巻く環境は常に変化しており,細胞が生存や集団として機能するためには,細胞は外界の環境変化や他の細胞からの刺激に適切に応答する必要があります.そのためには,細胞は,環境変化や他の細胞からの刺激を的確に検出し,検出した結果に応じて適切な応答をしなければなりません.それら一連の過程には未だ不明な部分が多いために様々な見解があるのも事実ですが,我々はそれらの仕組みを生化学反応を媒体とした信号処理とみなすことがシグナル伝達系の理解に最も有力なアプローチであると考えています.

細胞運命決定機構
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 環境変化や他の細胞からの刺激に適切に応答するためには,それらに対応した信号を細胞内部へと的確に伝達する必要があります.しかしながら,このとき用いられる信号は生化学反応によって生じる変化で作られているので工学的な電気信号などと比べて精密に制御できないことや,細胞の状態がもとからばらついていることなどがあり,伝達される信号はばらついてしまいます.信号がばらつくと,当然,伝達される情報が不確実になる恐れが生じます.我々は,このような不確実な情報伝達がなされるシグナル伝達系において,一体どのように情報伝達がなされているのかという点に非常に興味があり,伝達される情報を定量的に定義して「情報量」として調べることを行っています.問題設定に相応しい「情報量」の尺度を適切に定義することは簡単ではないのですが,シグナル伝達系の問題を工学分野のひとつである通信理論になぞらえて,シャノンの情報理論を用いてシグナル伝達系において伝達される「情報量」を相互情報量と呼ばれる尺度を用いて調べています.現在は,ERK経路周辺の情報伝達を調べており,その結果,伝達される情報量は高々1bit程度であることや,信号の平均的強度の低下に比べて情報がロバストに伝達されることなどがわかってきました.  シグナル伝達系における情報伝達を定量的に明らかにするには,依然,測定技術的にも数理手法的にもまだ発展途上である所はありますが,それだけにこれからの発展が見込めます.将来的には,情報伝達から応答に至るまでの処理の仕組み全体を,情報という観点からできるだけ普遍的に捉えて解き明かすことを目標としています.

LP遺伝子の神経分化における働き
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4. シナプス可塑性

 生物の脳における記憶や学習は,シナプス伝達効率の活動依存的変化,すなわちシナプス可塑性によって達成されます。特にプレ・ポストシナプスニューロンの正確な発火タイミングの違いに依存するスパイクタイミング依存シナプス可塑性(STDP: spike-timing dependent plasticity)は,神経回路の情報符号化のメカニズムに深く関わっていると考えられることから,大きな注目を集めてきました。 しかし,STDPを導くシグナル伝達機構の,システム的かつ定量的な理解は未だなされていません。そこで,私たちはシナプス可塑性の入力から出力までを一組の数理モデルで表現し,STDPの生成機序をシステムとして理解することを試みました。すなわち,一連のシナプス可塑性シグナル伝達機構を,膜電位のマルチコンパートメントモデルと生化学反応モデルの組み合わせとしてコンピュータ内に再構築しました(浦久保、2008)。その結果,LTPは提案されているシナリオの内の一つに従って再現されたものの,LTDはこれまでに提案されたLTD入力のシナリオでは再現できないことが明らかになりました。そのため,私たちは提案されているLTDのシナリオを再検討する必要に迫られました。そこで、私たちは、NMDA受容体のこれまでに知られていない性質が存在するのではないかとする仮説を提案しました。この性質により通常のSTDPのみならず,より複雑な発火タイミングが決定するTriplet -STDPをも再現することができました。このNMDA受容体の性質がLTDのためのスパイクタイミング検知メカニズムとしてもっとも妥当な可能性であると考えることができます。また、このSTDPにより視覚学習の一つである方向選択性の学習が獲得できることが明らかとなりました(本田、2011)。最終的には私たちの記憶・学習を制御する生物学的に整合性の高いシナプス学習則を構築して、私たちの脳における記憶の情報処理機構を解明することが目的です。