前回のコラム(シグナル伝達と通信(1))は平成21年に書いたものだが、その後Akt
経路が低周波フィルタであるという論文(Fujita, KA et al, 2010)を書きながら、もう
少し考えが整理できてきたので書いてみたい。簡単にいうと遺伝子や分子が何か生物学的
機能を制御している場合、その分子自体の機能性を重要視させてきたが、それだけではな
く、分子の濃度や活性の変動パターンにも情報がのっているとも考えることができる。例
えば、分子ネットワークは情報を伝えるもの、情報とは分子ネットワーク上を伝わるも
の、と言えば分かりやすいかもしれない。
具体的に説明しよう。EGFは細胞増殖を制御する。だからといって、EGFを加えるといつ
も細胞が増殖するわけではなく、ある一定の条件が必要である。例えば、EGF一分子が細胞
のEGF受容体に結合しても、それだけではEGFが細胞増殖を引き起こすことはできない。EGF
が細胞増殖を誘導するには、ある一定数以上のEGFが必要である。しかも、一瞬与えれば十
分ではなくそれなりの時間が必要である。こう考えるとEGF自体というより、EGFの分子数
のある種の時間パターンが細胞増殖を引き起こすと言える。その時間パターンは細胞内で
はEGF受容体のリン酸化の状態に変換されて、その後シグナル伝達経路を経由する際にもさ
らに変換されていく。EGF受容体がリン酸化されると、ERK経路が活性化されて下流の基質
をリン酸化したり、Akt経路を介してS6がリン酸化したりする。
例えば、PC12 細胞では、EGF受容体の強い一過性のリン酸化シグナルよりも弱い持続性
のシグナルの方が下流の分子であるS6のリン酸化を効率的に誘導できる。これはEGF受容体
からS6にいたる経路がローパスフィルタ(低周波通過フィルタ)特性によるためである。
ざっくりした説明をすると、EGF受容体のリン酸化の遅い変動パターンのほうが速い変動パ
ターンより下流のS6に効率よく伝達されることを意味している。どのくらいなら遅いかど
うかはEGF受容体のリン酸化パターンの周波数成分が、S6までにいたる経路のカットオフ周
波数(時定数の逆数)より遅いかどうかで決まる。またこの特性によって、抗がん剤であ
るEGF受容体阻害剤を投与した場合に、EGF受容体のリン酸化は抑制されるが、持続的に
なってしまうため、 S6のリン酸化は逆に上昇してしまう場合がある。
ポイントは、時系列を含むシグナル分子の変動パターンに情報がのっており、シグナル
分子やネットワークはそれを伝える通信路であると捉える点である。つまり、シグナル分
子や経路自体に情報があるわけではなく、情報はシグナル分子ネットワークを伝わるもの
であると考えることができる。これまではシグナル分子と生物学的機能を対応させること
(例えば、EGFは細胞増殖を制御しているなど)が分子メカニズムの理解と捉えられてきた
が、シグナル分子自体は何の情報もないためシグナル分子と機能を対応させる理解の仕方
はスジのよいとは言えず混乱をまねいてしまう。むしろ、情報はシグナル分子の変動パ
ターンと捉えるべきで、シグナル分子ネットワークがどのように変動パターンを伝達する
のかという視点から生命現象を理解するほうが理にかなっており、より本質な理解が得ら
れると思われる。
分子自体に機能に関する情報があるとする考え方と、その分子の濃度なり時間パターン
なりが機能に関する情報だという考え方は、WhatとHowの関係に相当するものである。まず
はwhatが分かった後、その後Howが問えるのだと思う。私にとってのシステム生物学は後者
を問う学問だと思う。