シグナル伝達と通信(1):システムが分かるってどういうこと?

私はもともと実験科学としてシグナル伝達を解析してきた。その後、紆余曲折してシス
テムズバイオロジーの研究を始めることになったが、現在でも対象はシグナル伝達のまま
である。対象は同じでも研究の方向性が本質的に異なる。ここでは、何が異なっているの
かについて述べたい。それは分野を移るに伴いずっと私の中で小骨のように引っかかって
いた違和感の答えでもあり、最近ようやく言葉で説明できるようになったのでここで述べ
てみたい。それは、何をすれば「分かる」ということに関する感じ方というか、何が分か
ればそもそも自分がうれしいかというようなことである。これはあくまで私の偏見みたい
なものなのであまり真面目に取られても困るが、それは実験家あるいは理論家がそれぞれ
相手の分野の研究者と話をする際に感じる違和感と通じていると思うので、一部の人には
参考になるかもしれない。

筆者が最初にシグナル伝達の研究を始めたときは、ちょうどがん遺伝子、がん抑制遺伝
子の同定が花盛りだった80年代後半である。その後10年近く同じようなフィールドで仕事
をしてきたが、そのフィールドでの研究目的としては、ある細胞機能などを制御する分子
の同定であったり、ある分子の未知の機能を見つけることであったり、また遺伝子操作な
どにより生じる表現形を調べることであったりと、ともかく総じて「物質的に新しいこと
を発見する」ことに一番の重きがおかれていた。そしてそれが「分かる」ということであ
り、(論文を書く場合でも明確に記すことはなかったが)業界内での合意が暗黙のうちに
とれていたと思う。

新しい遺伝子やその機能を見出すことは、天体の運動にたとえて言うなら、新しい惑星
を見出すということに近い。また、ある遺伝子が発現すると細胞が分化はするという理解
は、惑星は太陽の周りを回っているという理解と本質的に同じである。つまり、ある遺伝
子は細胞を分化させる、惑星はともかく太陽の周りを回っている、という事実がここでは
一番大事であり、遺伝子発現がどういう時系列パターンの際に細胞が分化するのか、惑星
の軌道が楕円か円であることは、「新しい現象を発見する」という点からは一番重要な問
題とはあまり見なされない。それが証拠に最近ではほとんどの論文で時系列パターンや刺
激の強度なりを詳細に変化させて応答を観察している論文は、80年代までは生化学の
フィールドではよく見られたが、今ではほとんど見かけない。つまり、「新しいことを発
見する」ということは、要素と現象の代表的な関係を定性的に文章で記述することを手段
として用いることが多い。

一方、(私の)システム生物学では、ある現象の特性を生み出す「原理を見出すこと」
が目的である。現象の特性という点からすれば、遺伝子発現が一過性か持続性など時系列
パターンがどういう場合に細胞が分化するのか、惑星の軌道が楕円か円であるということ
が一番大きな問題となる。逆に対象とするものは新しい未知の現象である必要はなく、そ
れまでにみんながよく知っている事実であってもかまわない(そう、リンゴが落ちること
だって十分対象となるのだ!)。この要素の振る舞いをできるだけ広い範囲で細かく計測
してその振る舞いの特性を抽出できれば、そこから背後にある原理を推測できるという考
え方である。その原理とは、遺伝子発現と分化の関係は生化学反応に基づくある種の周波
数応答やポジティブフィードバックによる双安定性であったり、万有引力の法則であった
りする。それは、要素の振る舞いを定量的に観測しなければ(円と楕円では大違い)、原
理に到達することはできない。ここでは、「ある現象の特性」とそれを生み出す「原理を
見出すこと」が目的であり、それはある意味「新しい説明を与える」とも言え、新しい現
象を見出すこと自体を目的としていない(もちろん、新しい現象を自分で見出してもその
原理を見出しても構わない)。そして、その説明は刺激と応答の関係性を定量的に数式な
どを用いて表すことを手段として用いる場合が多い。

シグナル伝達分子の中には、MAP kinaseやRasなど同じ分子でも細胞や組織が異なれば全
く異なる多彩な細胞機能を制御する分子がいくつかある。私が以前行っていたシグナル伝
達の研究では、あたかもその分子自身が多彩な機能そのものであるように思われることさ
えあり、そういう分子は機能や表現形がはっきりしない他の多くの分子より重要であると
されてきた。一方、システム生物の点からすると、多彩な機能を持つ分子は、その上流と
下流にいろんなエンコーダとデコーダがあるおかげで多彩な機能を発揮できるのであり、
多彩な機能を持つ分子自体は何のことはない、様々な情報を載せることができる汎用媒体
であることがその正体であることが分かる。つまり、電話回線やLANケーブルみたいなもの
だ。だからこそ、多彩な機能を持つ分子と報告されている分子は、汎用媒体ゆえさまざま
な情報を載せてしまうことができるため、細胞や環境が変わればエンコーダとデコーダの
セットも変わるので多彩な応答を示すことができるのである。どおりで、その分子と現象
をきれいに関係付けようと調べれば調べるほどいろんな例外が出てきてますます混乱して
シンプルな理解から遠ざかってしまうわけだ。

この「新しいことを発見する」と「原理を発見する」という差が、私の違和感の正体で
あったと最近ようやくはっきりと気づけた(続く)。

現代生物科学入門8「システムバイオロジー」より